★どこかズレている自分
わたしは小さい頃から「分かられないなあ」と孤独に思うことが多いように思う。
要するに「解せぬ」ってやつだ。解せぬ印象を、人に持たれやすい。
それを、高校までは紛れもなく「それでいい」と思っていた。
「人と違うほど、人はおもしろい」と心から思えていたのだ。
だから変なことやおもしろい行動をする友達ばかりと連んでいたし、そうゆう友達しかできなかった。笑
し、そうゆう友達が大好きだった。今もそうだ。
逆に人と同じようにものをいう人は、嘘をついているようにしか見えなかった時期がある。胡散臭いなあ、自分の考えはないのかなあ、と。
★「常識」というものに囚われていった会社員時代
それが何を履き違えたのか。
いつからか、人と違うことが恥ずかしいな、普通の大人にならなければいけないな
と思うようになる。
特に大学〜社会人になってからだ。
「常識のある人」「しっかりしている人」「教養を身につけた人」「要領、地頭のいい人」「社会性のある人」。そうゆう言葉に縛られていった。
とくに「地頭のいい人」という言葉には衝撃を受けた覚えがある。
会社員時代に会社の同じ部署の上司が口にしていた言葉だ。
当時は採用をしたい時期でそうゆう人材を求めていたのだろう。
のちに、「地頭のいい人」というのは「頭の出来がいい人」というよりは「閃きや発想力のある人」という意味合いが強いことに気が付くのだが、
当時は、人が人の能力をジャッジするような行為自体に嫌悪していたし、怯えていた。
もしかしたら、人から分かられない部分の多い自分も、少なからずジャッジを受けているのだろうと。そして、いつ会社という村から弾き出されないか常に不安だったように思う。(弾き出される、というのはリストラとかゆうものではなく、所属し続けていつつも、見限られたりなんらかの烙印を押されたりするという意味で)
そして、わたしが捻くれているからだろうか、
こうゆう言葉はやはり聞いていても書いていてため息が出る。実際には出ていないが脳がため息をついている。
こんなに、世界って窮屈で自由が無くてつまらないんだな、と落胆してくる。
でも一方で、これは安易的な解釈だとも思う。
常識があってしっかりしていて、教養もあり、地頭のいい、社会性のある人でありつつ、接していて楽しい人も自由を謳歌している人もいるだろう。
でも、どうしても私には
スーツを着て動作のテキパキしているような、仕事のできる早口で理の通った女の人のイメージなのである。
そして、そうゆうことができる人には自分が煙たがられる自信がある。
そして元々対立して喧嘩することが苦手だ。
だから、必要以上に人に対して萎縮してしまうし、どうせこう言っておいた方がいいんだろう、的な当たり障りのない無感情なところに落ち着いていってしまったのだ。
★「つまらない大人」を実行していた自分
わたしに1つ気付きをくれた人がいる。
会社員時代の、私の隣の席だったデザイナーさんだ。
その人は、その人の持っている感情も意見もそのまま表現することに長けているなあと私は思っていた。かといって、そうゆう感情を発信されても、私は嫌な気持ちがしなかったのである。
対して当時の私はというと、会社に絶対に自分の感情というものを持ち込まないように振舞おうとしていた。会話でも、「この返しが普通だな」と思うものをチョイスしていた。(でも相手にしたらやっぱり変だったのかもしれない笑)
要するに本音で話している相手に、「このくらいかな」の返事をしていたのである。今思うと、とても失礼だと思う。
高校までの自分が違和感に思っていた「胡散臭い大人」にわたしはなりかかっていたのである。
★本当の意味での「社会性」
そんな中、最近読んだ野見山暁治のインタビュー形式の著書にこんなことが書いてあった。(『のこす言葉 野見山暁治 人はどこまでいけるか』平凡社より)
『友情も、愛情も、そこに知恵、つまり社会性がなければいけない。
人類に共通したもつべき考えというのかな。
人間はあれこれ考える間もなく、走ってしまうことがあるでしょう。
理屈でどう言えばいいかわからないけれど、フランスでは日常的にそうゆう場面にあった。
メトロに飛び乗ってドアのそばに立っていたときのこと。
向かい側で男女が抱き合っていました。男はいかにも女たらしのあんちゃん。
日本ではあまりないことだからぼうっと見ていたら、そのうち電車が動き出した。
すると反対側にいた浮浪者のような、ほんとうに汚くて触ると汚れてしまう人が、
ガタッと重心をなくして倒れかかったんです。
わっと傾いた瞬間、抱き合っていたあんちゃんが女の人を放りだして間一髪で彼を抱き止めた。
ぼくは何よりその素早さに感動しました。
一つのことに熱中していながら、やはり社会のなかであんちゃんに蓄積されていたということです。
ヒューマニティというのかなあ、あれが人間の知恵じゃないだろうか。
よくある親切心からではなく、とっさの行動に表れたんですね。
自分は今どうすべきか、と一人ひとりが各々の立場でぱっと動けるんです。
見ないふりをするということがない。
その場その場で人としてどうすべきか、それを知っていることが知恵です。
…なんだか説教じみてきた、やめましょう。』
引用した野見山暁治のインタビュー本は目から鱗だった。
「知恵」、「社会性」を身につけているという事は、
偏差値が高いことでも、仕事が素早いことでも、ウンチクが沢山言えることでもない。
「ヒューマニティ」とは、自分を自分の思うチンケな「普通」に抑え込むことじゃなくて、それを人に平和的に共有してゆくこと、
そして体調が悪そうな人がいたら声をかけたり、挨拶を当たり前にしたり。
人として自分がやれる良心ができれば、人違うというような孤独は怖くないのではないか。
★人と違うことは怖いことではない
自分が人に対して良心を持ち、そしてそのときに自分に何ができるか分かる、というのは
やはり社会で生きて身につけるものなんだ、と思う。人にしかできないことだ。
そして、この価値観は人類までの視点に上がることができる。
そうだ、思い出した、高校生までの私の感覚を。
わたしの「人と違えば村八分になるかもしれない」という不安を、この良心は打ち消してくれるのだ。
「ヒューマニティ」はエゴを打ち消す力がある。
「社会性」とは「無償の良心」それならば限りなく自由じゃないか。自分を自由にしてくれる愛そのものじゃないか。
★これからも社会とつながりを持とう
正直言って大学以降人の目が怖かった。
しかしもう「人と違う」と思われても、いい、と思っていい頃だ。
逆に人と違う感性を持っているなんてラッキーだし、
私は元々、そうゆう変な人が好きではないか。
社会性とは愛、その概念を持てたなら強い。
あとは社会に接していく事だ。実際に触れていって真のヒューマニティを会得していく。
私には今、体験が必要なんだ。
おわり
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