去年の2022年11月末に会社を辞めてから10ヶ月。
振り返るにはあまりにも微妙な月日が経過した。
本当は最低でも月に1回とか振り返ったほうがブログっぽいがそんな豆な性格をしていないことはもうわかってる。
最近思うことは
「絵が描けない。」
というより、「自分がいいと思える絵が描けない。」
というより、「自分がいいと思える絵ってなんだっけ?」
のほうが近い。
(え?会社員辞めて、自分の絵で自立していこうと決めて、しかも実際に辞めたのに今更?)
と、自分でも驚きである。
驚きだし、そんな頼りない思考をしていると当たり前に不安になってくる。不安で眠れないので、お酒を飲んだりして無理やり寝るが、夜中3時頃にトイレに起きて、朝9時半頃まで寝てしまい、(無職なのにこんな時間まで寝ているなんて。。。)と、自己嫌悪に陥ったりする。
なのでここでその得体の知れない不安の輪郭をとらえてみたい。
輪郭をとらえることで少しは気持ちがおさまることを信じて…
★今わたしは「絵が描けない」のか?
まず「絵が描けない」について。これは嘘。
なにが嘘かというと、毎日絵は描いているから。
正確には絵を描きながら「描けないなあ、なんだかなあ。。。」と心の中で呟いている。
なので描けないのではなく、その絵に対して自分が納得がいっていないのである。
★「納得のいく絵」「いい絵」について
それなら自分が納得のいく絵ってなんでショねって考えてみる。
綺麗な絵?広義すぎる。なんか中身が薄く感じる。(ようになるのは美大出身の呪いあるあるなのかもしれない)
「ホラね、綺麗でしょ」みたいな絵は、見るのも描くのもマッピラって感覚があることはわかってる。
会社員時代にゲームアプリ会社で描いていた絵にはもう戻りたくない(描くべきではない)とも思っている。
会社員当時はとにかくがむしゃらに、社長やユーザーや企画サイドが求めている絵を、今ある能力を総動員して、とにかく「売れる可能性のある絵」「社長がOKを出すようなクオリティの高い絵」を作り出さなければ!と思っていた。
だから、「側」なのである。「側」=「皮」が良ければ・ユーザーの反応が良く、ガチャの回転率が上がれば、毎月お金をもらえるのである。(なんてドライな言い方なんだろう)
でも今振り返ると、周りにわんさか上手い絵を描く人がいる中、切羽詰まった情念と反骨精神みたいなもので描いていたので、ある意味「いい」に分類されるのかもしれない。20代の貴重な5年間をこれに費やしたのでそう思いたいのかもしれない。
綺麗な実の皮を剥くと、中身は「情念」と「反骨精神」。(まずそう)
でも実は、当時はお給料やガチャの回転率はわりと、どうでもよくて、
ただユーザーに対して「人を感動させたい」「アイディアで驚かせたい」「クスっとさせたい」とか、そうゆう、自分にとっては純粋な思いがあって仕事をしてた。うん、そうしてたと思う。
そう思うと、私にとってあれは「ただ綺麗な絵」とするのはあまりにも思い入れのあるものなんだとも思う。
でも、今描くべき絵は会社員時代のような美麗な絵ではないことはわかってる。人から見たら退化かもしれないな。会社員時代の同僚や上司に今の絵を見せたらそう思われても仕方ない。
周りはどうあれ、今は脱皮するしかない。そう決めたのは私なのだから。
では、「ただ綺麗じゃない絵」というのは何か。
言葉でいきなり言い表すのは難しいので浮かぶ芸術家の名前をあげてみよう。
茂田井武、武井武雄、初山滋、横田稔、
パウルクレー、アンリマティス、ロダン、クヴィエダ・ヴァツォウスカー、エロール・ル・カイン、ブルーノ・ムナーリ、エリック・カール、レオ・レオニ
井上洋介、長新太、五味太郎、ささめやゆき、畦地梅太郎、牧野伊三夫、益田ミリ、ミロコマチコ、nakaban
山本容子、岡本太郎、池田満寿夫、野見山暁治、中條正義
で、何人かの画集を改めて見てみる。。。
綺麗じゃん。
なんだ、綺麗じゃん、が基本なのである、
絵の具をじゃんじゃん塗りたくっているように、テキトーにやっているように見えるが、そこに「綺麗」が存在するのである。
綺麗さだけじゃない綺麗がそこに存在するのである。
ある芸術家の作品には、色彩が綺麗でとろけるような感覚になれたり、またちがう芸術家には、奔放に見える線に情熱や自由を感じたりするのだ。両立する絵描きもいる。
そうゆう芸術家たちの根底で共通してるのは自由にたいする信念があるということ
前までは自由さがあれば作品として「いい」に近づけるものだと思っていた。
でも自由さだけだと、観てるほうが不安になってしまうのかもしれないと気がついた。
わたしは絵の具をぶちまけた絵に、今の所はあまり魅力を感じない。自由さだけの絵を見ると、これも「ただ綺麗な絵」を観ているときと同様に空虚な気持ちになってしまうように思う。
要するにわたしは
人が意識的に何かを形にして、その形を愛でている絵が好きなんだなと思った。
現実という制限のあるなかで愛を現そうとしている、厳しさみたいなものもある。
そうゆう作家のものづくりに対する姿勢が好きだ。
形にした絵を愛でてるということは、この世界を愛してるということになる。愛してないとああゆう絵にはならないと思う。
この世界を愛していること、愛することは自由なんだということを絵が教えてくれるような絵が好きなんだと気づいた。(なんだか言いたいことが抽象的すぎるのかもしれない)
★結局描くしかないよ。
ほんともう。それに尽きるよ。
いろいろ批評家みたいなこと言ってしまったけど、こうゆうことをぐるぐる考えているうちに、
結局最後は「ごちゃごちゃ言ってないで、あのさ、描くしかないよ。」に終着するのである。
目の前のことを信じて、情熱を温め直していくしかないんだ。
絶対にやっつけなんてしない、自分の子供のように愛でる。
頭ではよくわかっているんだなあ。
おわり
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