2023年10月29日日曜日

信頼関係を築く

 即物的に、情報やものを享受でき続ける社会では、

信頼関係を築くには長い年月がかかるということを忘れそうになる。

人に対しても 絵に対してもそうで、もっとじっくり付き合っていけばいいということ。

いい絵は、作者がどれだけその絵をことを信じられているかどうかなんだと思った。

その絵を信じるには、心が動く事が必要で、ヒューマニティが必要ということ。

ヒューマニティもまた、経験の蓄積と、隣人を愛することが必要なんだな。

絵は人生全体なんだよな。。。

おわり


2023年9月26日火曜日

1人の絵描きとミューズ

 


どこへゆくんだい?

不安そうな目でこっちを見ている私がいった。

べつに、どこへも行かないよ。

たださ、こっちの道へは何があるか分からないから、

見てみるだけだよ。

それじゃあ、いつまでたっても目的地に着きやしないじゃない。

ほら、あそこ。あれがモクテキチ。

私が指さす先には地面にささった標識のようなものが見える。

わたしは、ふーんとつまらなそうな息を出して

そんなの、興味ないもの。と呟いた。

どうして?もうすぐモクテキチなのに。

つまらなそうなわたしは、しばらく下を見ていると、はっと目に輝きが灯り、

道の端に転がっていた石をめくり出した。

また変な事を思いついたのか、と呆れていると、

ほら、みて、こんなところにミューズがいた。と、

石の裏の暗闇を指差してわたしが言う。

ミューズ?あの、薬用せっけんの?

ちがうよ。ミューズはミューズだよ。私に伝えたいことがあるみたいだよ。

私はそっと石に近づいていき、ミューズの顔をのぞきこんだ。

ミューズの唇はめらめらと動いた。

「*%^$@%@」

言葉ではない言葉 発音 音

その音は飛んでいき私のいる空間を踊った。

白と黄色とだいだい色を混ぜたクリーム色の空間を浮遊して

ちいさな花火みたいにあたたかく弾けていく。

ほらね、おもしろいでしょう?

私のくちびるがそう言うと

紙のうえに描かれたミューズは笑った。


2023年9月25日月曜日

人の役に立つ事、それ以上に大切なことは何か




ギャラリーでのバイトが始まって、早6回目(ちょうど1ヶ月くらいか)。
6回目ともなると、不思議と慣れてくるものである。
バイトに行く前は、
接客業は学生時代以来で約5年ぶりだったので
上手くできるか不安だった。が、
お客さんとお話することもまあまあ慣れてくるもので
今日は来廊してくださった何人かと少しだけ立ち話もできた。
やれば慣れるものだなあ。人間って順応性高いなあ。と、
自分のことなのに他人事のように思う。
(まだまだ接客としてはおぼつかなかったり気が利かなかったりするところもあるけれど。)

しかも、レジをしながらパソコンでの作業があったり
作品の搬入、搬出作業があったりと、
いろんな作業があって飽きないところが私に合っているように思う。
そのかわり、作品購入の際には大きなお金が動くので、レジの押し間違いや
売上管理は要注意だ。作品の移動にはものすごく神経を使う。

パソコンでの作業は、前のゲーム会社で培ったスキルも活かせる内容で
まさか、ギャラリーでのバイトで活かせるとは思わなかった。
4年半やってきたことが無駄ではなかったなあと思えた。
労働は悪っていう言葉もあるけれど、
「人の役に立てるって嬉しいことだな」と思う。
1年ほど仕事をお休みして、自分の絵を追求しようと思って過ごしていたけれど、
どうやら私は誰かにありがとうと言われることで自信を得ていくらしい。

でも反対に、こうも思う。
人にありがとうと言われなくても、人に認められなくても、
自信を持って生きていいのだとも思う。
自分がそこにいる理由を、何かと引き換えにしなくてもいい。

子供を見ていると心底そう思う。
その子がそこに居るだけで周りが癒されていく。

「そこにいるだけ」の大人が許されないのはなんでかなって思ったけれど
たぶん許せないのは自分自身で
自分の人生を大切にしていたら、「何か」はしてしまうもので
「ただそこにいる」に耐えられるほど人は強くないんじゃないか、と思った。
(マツコデラックスが昔、「引きこもりは強い、普通は引きこもれない」って言っていた)

そこにいるだけができないから、
詩や絵や音楽で、大人は表現するんだね。
そしてみんな表現したらいいのにな、と思う。
ものづくりには「そこにいるだけ」ってゆう愛があるね。


今日も話はまとまらずに。

おわり










2023年9月13日水曜日

いい絵が描けた



今日はなかなかいい絵が描けた!
午前中は筆がのらず、若干落ち込んでもいて大変だった。
私ってどこに行ったらいいんだろう、と路頭に迷っているような不安感があった。
けれど、こうゆう瞬間があるから
絵があるから生きていけるなあ。
好きな絵を描こう。

2023年9月8日金曜日

真面目さが抜けない

 


う〜〜〜〜ん。。。。。。。。
苦しい!!!!!
苦し楽しい!!!!!!!!!

私ってばまたスタイルの解体と構築をし始めています。
完全に迷い子。迷える子羊。

馬の構造をちゃんと再現しようとする真面目な自分と、
もっと自由に!を求める自分とが葛藤状態。
もっと伸び伸び描きたいが、
「伸び伸び」が怖いと思う自分もいる。
もともとの真面目さがあるんだろうな。
(普段の私を知っている人から見たら適当に見えているのだろうけど)

ほんとにシャガールやピカソや岡本太郎は偉大ですね。
「これが自由だ」を体現している。


今週からギャラリーでのバイトを開始!
いろんな作業が新鮮。

徐々に作家さんや来廊者さんとお話できるようにしたいなあ。
正直、初対面の人とのやりとりは得意ではないけれど、
ものづくりをする人のお話を間近で見聞きすることは
とても貴重だと思う。
1人1人、長くものづくりを続けてきた人はどんな方なんだろう。
今から楽しみでもあります、
そして、社会で生きる自分を育てたいと思う。
1年間引きこもっていたから、徐々にね。。

ここで、今日見た岡本太郎の名言を。

「いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。」



おわり



2023年9月3日日曜日

最近価値観が変わったこと

★どこかズレている自分

わたしは小さい頃から「分かられないなあ」と孤独に思うことが多いように思う。

要するに「解せぬ」ってやつだ。解せぬ印象を、人に持たれやすい。

それを、高校までは紛れもなく「それでいい」と思っていた。

「人と違うほど、人はおもしろい」と心から思えていたのだ。

だから変なことやおもしろい行動をする友達ばかりと連んでいたし、そうゆう友達しかできなかった。笑

し、そうゆう友達が大好きだった。今もそうだ。

逆に人と同じようにものをいう人は、嘘をついているようにしか見えなかった時期がある。胡散臭いなあ、自分の考えはないのかなあ、と。


★「常識」というものに囚われていった会社員時代

それが何を履き違えたのか。

いつからか、人と違うことが恥ずかしいな、普通の大人にならなければいけないな

と思うようになる。

特に大学〜社会人になってからだ。

「常識のある人」「しっかりしている人」「教養を身につけた人」「要領、地頭のいい人」「社会性のある人」。そうゆう言葉に縛られていった。

とくに「地頭のいい人」という言葉には衝撃を受けた覚えがある。

会社員時代に会社の同じ部署の上司が口にしていた言葉だ。

当時は採用をしたい時期でそうゆう人材を求めていたのだろう。

のちに、「地頭のいい人」というのは「頭の出来がいい人」というよりは「閃きや発想力のある人」という意味合いが強いことに気が付くのだが、

当時は、人が人の能力をジャッジするような行為自体に嫌悪していたし、怯えていた。

もしかしたら、人から分かられない部分の多い自分も、少なからずジャッジを受けているのだろうと。そして、いつ会社という村から弾き出されないか常に不安だったように思う。(弾き出される、というのはリストラとかゆうものではなく、所属し続けていつつも、見限られたりなんらかの烙印を押されたりするという意味で)

そして、わたしが捻くれているからだろうか、

こうゆう言葉はやはり聞いていても書いていてため息が出る。実際には出ていないが脳がため息をついている。

こんなに、世界って窮屈で自由が無くてつまらないんだな、と落胆してくる。

でも一方で、これは安易的な解釈だとも思う。

常識があってしっかりしていて、教養もあり、地頭のいい、社会性のある人でありつつ、接していて楽しい人も自由を謳歌している人もいるだろう。

でも、どうしても私には

スーツを着て動作のテキパキしているような、仕事のできる早口で理の通った女の人のイメージなのである。

そして、そうゆうことができる人には自分が煙たがられる自信がある。

そして元々対立して喧嘩することが苦手だ。

だから、必要以上に人に対して萎縮してしまうし、どうせこう言っておいた方がいいんだろう、的な当たり障りのない無感情なところに落ち着いていってしまったのだ。


★「つまらない大人」を実行していた自分

わたしに1つ気付きをくれた人がいる。

会社員時代の、私の隣の席だったデザイナーさんだ。

その人は、その人の持っている感情も意見もそのまま表現することに長けているなあと私は思っていた。かといって、そうゆう感情を発信されても、私は嫌な気持ちがしなかったのである。

対して当時の私はというと、会社に絶対に自分の感情というものを持ち込まないように振舞おうとしていた。会話でも、「この返しが普通だな」と思うものをチョイスしていた。(でも相手にしたらやっぱり変だったのかもしれない笑)

要するに本音で話している相手に、「このくらいかな」の返事をしていたのである。今思うと、とても失礼だと思う。

高校までの自分が違和感に思っていた「胡散臭い大人」にわたしはなりかかっていたのである。

★本当の意味での「社会性」

そんな中、最近読んだ野見山暁治のインタビュー形式の著書にこんなことが書いてあった。(『のこす言葉 野見山暁治 人はどこまでいけるか』平凡社より)

『友情も、愛情も、そこに知恵、つまり社会性がなければいけない。

人類に共通したもつべき考えというのかな。

人間はあれこれ考える間もなく、走ってしまうことがあるでしょう。

理屈でどう言えばいいかわからないけれど、フランスでは日常的にそうゆう場面にあった。

メトロに飛び乗ってドアのそばに立っていたときのこと。

向かい側で男女が抱き合っていました。男はいかにも女たらしのあんちゃん。

日本ではあまりないことだからぼうっと見ていたら、そのうち電車が動き出した。

すると反対側にいた浮浪者のような、ほんとうに汚くて触ると汚れてしまう人が、

ガタッと重心をなくして倒れかかったんです。

わっと傾いた瞬間、抱き合っていたあんちゃんが女の人を放りだして間一髪で彼を抱き止めた。

ぼくは何よりその素早さに感動しました。

一つのことに熱中していながら、やはり社会のなかであんちゃんに蓄積されていたということです。

ヒューマニティというのかなあ、あれが人間の知恵じゃないだろうか。

よくある親切心からではなく、とっさの行動に表れたんですね。

自分は今どうすべきか、と一人ひとりが各々の立場でぱっと動けるんです。

見ないふりをするということがない。

その場その場で人としてどうすべきか、それを知っていることが知恵です。

…なんだか説教じみてきた、やめましょう。』

引用した野見山暁治のインタビュー本は目から鱗だった。

「知恵」、「社会性」を身につけているという事は、

偏差値が高いことでも、仕事が素早いことでも、ウンチクが沢山言えることでもない。

「ヒューマニティ」とは、自分を自分の思うチンケな「普通」に抑え込むことじゃなくて、それを人に平和的に共有してゆくこと、

そして体調が悪そうな人がいたら声をかけたり、挨拶を当たり前にしたり。

人として自分がやれる良心ができれば、人違うというような孤独は怖くないのではないか。


★人と違うことは怖いことではない

自分が人に対して良心を持ち、そしてそのときに自分に何ができるか分かる、というのは

やはり社会で生きて身につけるものなんだ、と思う。人にしかできないことだ。

そして、この価値観は人類までの視点に上がることができる。

そうだ、思い出した、高校生までの私の感覚を。

わたしの「人と違えば村八分になるかもしれない」という不安を、この良心は打ち消してくれるのだ。

「ヒューマニティ」はエゴを打ち消す力がある。

「社会性」とは「無償の良心」それならば限りなく自由じゃないか。自分を自由にしてくれる愛そのものじゃないか。


★これからも社会とつながりを持とう

正直言って大学以降人の目が怖かった。

しかしもう「人と違う」と思われても、いい、と思っていい頃だ。

逆に人と違う感性を持っているなんてラッキーだし、

私は元々、そうゆう変な人が好きではないか。

社会性とは愛、その概念を持てたなら強い。

あとは社会に接していく事だ。実際に触れていって真のヒューマニティを会得していく。

私には今、体験が必要なんだ。



おわり

2023年9月2日土曜日

「描けないなあ、なんだかなあ。。。」

去年の2022年11月末に会社を辞めてから10ヶ月。

振り返るにはあまりにも微妙な月日が経過した。

本当は最低でも月に1回とか振り返ったほうがブログっぽいがそんな豆な性格をしていないことはもうわかってる。

最近思うことは

「絵が描けない。」

というより、「自分がいいと思える絵が描けない。」

というより、「自分がいいと思える絵ってなんだっけ?」

のほうが近い。

(え?会社員辞めて、自分の絵で自立していこうと決めて、しかも実際に辞めたのに今更?)

と、自分でも驚きである。

驚きだし、そんな頼りない思考をしていると当たり前に不安になってくる。不安で眠れないので、お酒を飲んだりして無理やり寝るが、夜中3時頃にトイレに起きて、朝9時半頃まで寝てしまい、(無職なのにこんな時間まで寝ているなんて。。。)と、自己嫌悪に陥ったりする。

なのでここでその得体の知れない不安の輪郭をとらえてみたい。

輪郭をとらえることで少しは気持ちがおさまることを信じて…

★今わたしは「絵が描けない」のか?

まず「絵が描けない」について。これは嘘。

なにが嘘かというと、毎日絵は描いているから。

正確には絵を描きながら「描けないなあ、なんだかなあ。。。」と心の中で呟いている。

なので描けないのではなく、その絵に対して自分が納得がいっていないのである。

★「納得のいく絵」「いい絵」について

それなら自分が納得のいく絵ってなんでショねって考えてみる。

綺麗な絵?広義すぎる。なんか中身が薄く感じる。(ようになるのは美大出身の呪いあるあるなのかもしれない)

「ホラね、綺麗でしょ」みたいな絵は、見るのも描くのもマッピラって感覚があることはわかってる。

会社員時代にゲームアプリ会社で描いていた絵にはもう戻りたくない(描くべきではない)とも思っている。

会社員当時はとにかくがむしゃらに、社長やユーザーや企画サイドが求めている絵を、今ある能力を総動員して、とにかく「売れる可能性のある絵」「社長がOKを出すようなクオリティの高い絵」を作り出さなければ!と思っていた。

だから、「側」なのである。「側」=「皮」が良ければ・ユーザーの反応が良く、ガチャの回転率が上がれば、毎月お金をもらえるのである。(なんてドライな言い方なんだろう)

でも今振り返ると、周りにわんさか上手い絵を描く人がいる中、切羽詰まった情念と反骨精神みたいなもので描いていたので、ある意味「いい」に分類されるのかもしれない。20代の貴重な5年間をこれに費やしたのでそう思いたいのかもしれない。

綺麗な実の皮を剥くと、中身は「情念」と「反骨精神」。(まずそう)

でも実は、当時はお給料やガチャの回転率はわりと、どうでもよくて、

ただユーザーに対して「人を感動させたい」「アイディアで驚かせたい」「クスっとさせたい」とか、そうゆう、自分にとっては純粋な思いがあって仕事をしてた。うん、そうしてたと思う。

そう思うと、私にとってあれは「ただ綺麗な絵」とするのはあまりにも思い入れのあるものなんだとも思う。

でも、今描くべき絵は会社員時代のような美麗な絵ではないことはわかってる。人から見たら退化かもしれないな。会社員時代の同僚や上司に今の絵を見せたらそう思われても仕方ない。

周りはどうあれ、今は脱皮するしかない。そう決めたのは私なのだから。

では、「ただ綺麗じゃない絵」というのは何か。

言葉でいきなり言い表すのは難しいので浮かぶ芸術家の名前をあげてみよう。

茂田井武、武井武雄、初山滋、横田稔、

パウルクレー、アンリマティス、ロダン、クヴィエダ・ヴァツォウスカー、エロール・ル・カイン、ブルーノ・ムナーリ、エリック・カール、レオ・レオニ

井上洋介、長新太、五味太郎、ささめやゆき、畦地梅太郎、牧野伊三夫、益田ミリ、ミロコマチコ、nakaban

山本容子、岡本太郎、池田満寿夫、野見山暁治、中條正義

で、何人かの画集を改めて見てみる。。。


綺麗じゃん。

なんだ、綺麗じゃん、が基本なのである、

絵の具をじゃんじゃん塗りたくっているように、テキトーにやっているように見えるが、そこに「綺麗」が存在するのである。

綺麗さだけじゃない綺麗がそこに存在するのである。

ある芸術家の作品には、色彩が綺麗でとろけるような感覚になれたり、またちがう芸術家には、奔放に見える線に情熱や自由を感じたりするのだ。両立する絵描きもいる。

そうゆう芸術家たちの根底で共通してるのは自由にたいする信念があるということ

前までは自由さがあれば作品として「いい」に近づけるものだと思っていた。

でも自由さだけだと、観てるほうが不安になってしまうのかもしれないと気がついた。

わたしは絵の具をぶちまけた絵に、今の所はあまり魅力を感じない。自由さだけの絵を見ると、これも「ただ綺麗な絵」を観ているときと同様に空虚な気持ちになってしまうように思う。

要するにわたしは

人が意識的に何かを形にして、その形を愛でている絵が好きなんだなと思った。

現実という制限のあるなかで愛を現そうとしている、厳しさみたいなものもある。

そうゆう作家のものづくりに対する姿勢が好きだ。

形にした絵を愛でてるということは、この世界を愛してるということになる。愛してないとああゆう絵にはならないと思う。

この世界を愛していること、愛することは自由なんだということを絵が教えてくれるような絵が好きなんだと気づいた。(なんだか言いたいことが抽象的すぎるのかもしれない)


★結局描くしかないよ。

ほんともう。それに尽きるよ。

いろいろ批評家みたいなこと言ってしまったけど、こうゆうことをぐるぐる考えているうちに、

結局最後は「ごちゃごちゃ言ってないで、あのさ、描くしかないよ。」に終着するのである。

目の前のことを信じて、情熱を温め直していくしかないんだ。

絶対にやっつけなんてしない、自分の子供のように愛でる。

頭ではよくわかっているんだなあ。


おわり

信頼関係を築く

 即物的に、情報やものを享受でき続ける社会では、 信頼関係を築くには長い年月がかかるということを忘れそうになる。 人に対しても 絵に対してもそうで、もっとじっくり付き合っていけばいいということ。 いい絵は、作者がどれだけその絵をことを信じられているかどうかなんだと思った。 その絵...